新加坡 晚晴园--孙中山南洋纪念馆特别展示会关连日程(案)
Sun yat sen nanyang memorial hall debuts singapore’s contribution to 1911 revolution in kobe, japan
孫文と日本~熊本における辛亥革命支援の動き~
100年前の九州日日新聞記事より
100年前の九州日日新聞記事より
沖縄大学地域研究所
所長 緒方 修
目次
はじめに
第一章 孫文と日本との関わり
1 -孫文と日本亡命
2 -孫文の日本への呼びかけ
3 -孫文と宮崎家
第二章 九州日日新聞における辛亥革命の報道
1 -革命勃発
2 -記者派遣
3 -在米の孫文の消息
4 -熊本の清国留学生の動静
5 -孫文帰国
6 -孫文・胡漢民との会見
はじめに
2011 年は辛亥革命から100年にあたる。中国で長い間続いた君主制を倒し、アジアで最初の共和国を誕生させた意義は大きい。中心人物であった孫文は、1866 年広東省に生まれた。太平天国の乱が終息した4年後である。孫文が2歳の時に、日本では明治維新が起きた。1894年には日清戦争、孫文(28歳)。 1904年に日露戦争、孫文38歳。彼は隣国日本の興隆と中国の停滞を痛感しながら、革命運動に邁進した。1895年、広州で最初に兵を挙げ失敗に終わっ た後、海外に逃れ、以後約30年間のうち10年間を日本で過ごした。
中国革命同盟会結成、「民報」発刊、宋慶齢との結婚など大きな節目となる出来事は、日本滞在時期が多い。孫文は日本を「第二の故郷」と呼んだ。「中山」と名乗ったのも日本でのことである。一章は孫文と日本との関わりについて整理した。
二 章は100年前の九州日日新聞に掲載された孫文会見の記事を追う。孫文は、辛亥革命の報に接し、アメリカでの亡命生活を終え、ヨーロッパ経由で香港に着い た。これが1911(明治44)年12月21日のことである。その時に著者の祖父・緒方南溟は、孫文を出迎え、上海まで同船してしばしば会談した。その模 様は二日に分けて同紙に掲載された。明治45年1月3日と4日の記事を中心に紹介する。
第一章
1-孫文と日本亡命
孫 文と日本との関わりは深い。亡命生活30年のうちの3分の1を過ごし、中国革命同盟会の結成や宋慶齢との結婚など大事な節目を日本で迎えている。宮崎滔 天、梅屋庄吉などの同志を得、犬養毅、頭山満などの支援を得たのも日本であった。第二の故郷と呼んだ日本との関わりを年表にしてみた。(三民主義―岩波文 庫より)
1866年 広東省香山に生まれる。
1895年 広州で最初の挙兵 日本経由でハワイへ
1898年 ヨーロッパから日本へ 宮崎滔天らの志士と識る
1898年 横浜に居住 中山樵と称する
1900年 恵州にて挙兵(山田良政ら参加)失敗
1903年 日本で廖仲愷らと会う 東京に革命軍事学校設立
1905年 中国革命同盟会結成(8月)
1906年 「民報」東京で発刊 湖南挙兵に坑夫参加、失敗。
1907年 黄崗、七女湖挙兵に萱野長知らと武器調達。のち日本を追放。
1910年 アメリカより横浜へ。在留を拒否されペナンに密行。広州挙兵画策。
1911年 武昌挙兵(辛亥革命)をデンヴァーで知る。ロンドンに渡り四国借款取消交渉、12月上海到着。臨時大統領に擁せられる。
1913年 第二革命失敗、孫文免職。黄興とともに日本に亡命。
1914年 日本で中華革命党組織。宋慶齢と結婚。
1916年 日本より上海にかえる。
1918年 大元帥辞任。改めて軍政府7総裁の一人となる。日本を経て上海に向かう。
1924年 国民党第一次全国代表大会。孫文総理就任。国共合作を確認。黄埔軍官学校成立(6月)、北伐宣言(9月)など。神戸に寄り「大アジア主義講演」。
1925年 死去(59歳)
日本政府は国策により孫文には是々非々の態度をとった。民間では支援の声が強かった。辛亥革命(1911年)に対しての思い入れは、前年の大逆事件の反動という説もある。
孫文の亡命時期を表で示す。
出典 『辛亥革命100年と日本』日台関係研究会編 早稲田出版
2-孫文の日本への呼びかけ
孫文の日本の友人への手紙、日本での投稿、講演などを「孫文革命文集」(岩波文庫)より
時系列にまとめてみた。
1898年9月初旬 横浜市山下町の寓居にて
中国は必ず革命により共和主義を達成できる―宮崎寅蔵との談話
「余は固く信ず、支那蒼生のため、亜州黄種のため、また世界人道のために、必ず
天のわが党を佑助するあらんことを。君らの来たりてわが党に交を締せんとする
はすなわちこれなり。」
1901年12月20日 「東邦協会会報」第82号
支那の保全・分割について合わせ論ず
「現在の世界の重大事と言えば、支那問題以上のものはない。日本や西洋で東アジア
政策を定める政治家が唱える説は、いずれも保全・分割の二説である。
(略)日本の保全論者は言う。「支那は日本にとって唇と歯のように互いになくては
ならない関係の、同文同種の国である。(略)(日本の)分割論者は言う。「清国は
政治が頽廃し、官吏は腐敗し、上下が騙し合い、人々は国を愛そうとしない。」」
1905年8月13日 東京麹町区(現在の千代田区)飯田河岸の富士見楼にて
中国は共和国を建設すべきだ―東京留学生歓迎会での演説
「今日は我々が最初に立ちあがる日であり、これからは我々の力を尽くして、こ
の改革事業を提起すべきで、中国を立ち上がらせるよう我々が熱心に唱えれば、
中国が立ち上がらない道理は、決してないのです。例えば日本は維新時代、志士
は少なく、まだ国民はあまり目覚めていなかったのですが、彼ら(志士)は一人
一人が国家の義務を担ったので、三十年を経ずして自国を、全世界の六大強国の
一つとすることができました。」
1906年秋(あるいは冬)東京 「革命方略」―「支那革命実見記」付録より」
軍政府宣言
(一) 韃虜を駆除する。(略)
(二) 中華を回復する。(略)
(三) 民国を建立する。(略)
(四) 地権を平均する。(略)
1906年12月2日 東京神田区(現在の千代田区)錦町の錦輝館にて
三大主義と中国民族の前途―「民報」創刊一周年記念大会での演説
「「民報」が唱えてきたのは、中国民族の前途という問題であり、(略)第一が民
族主義、第二が民権主義、第三が民生主義です。」
1914年5月14日 大隈重信(注・首相)に中国革命の支持を求める書簡
「私が思いますに、今日の日本は支那の革新を助けて、東アジアを難局から救うべき
であり、支那は見返りに全国の市場を開放して、日本の商工業に利益をもたらすでし
ょう。そうすれば、お互いに求めるものは極めて多く、お互いに得るものも極めて大
きいのです。」
1914年7月8日 東京京橋区(現在の中央区)築地の精養軒にて
中華革命党総章
「第一条 本党は中華革命党と名付ける。
「第二条 本党は民権・民生の両主義を実行することを宗旨とする。
「第三条 本党は専制政治を一掃し、完全な民国を建設することを目的とする。」
1916年5月14日 日本陸軍参謀次長 田中義一に袁世凱打倒への支援を求める書簡
「斯様なる理由に基き、文自ら山東に赴きて同志の力を集中し、全力を挙げて努
力を決心致し候。」
1918年11月26日 南北妥協に反対し日本の支持を求める
―有吉明(注・上海駐在総領事)との談話「日本が座して英米の跋扈に黙従せんより、
今に於いて果断の措置に出で、飽く迄東亜の聯盟を理想とする自分に援助して、以て
将来の大計に資せんことを望む(略)」
1923年11月16日 犬養毅(第二次山本権兵衛内閣通信大臣)に列強の影響を脱し中国
革命の成功を助けるよう求める書簡
「古人は、「その心を得れば、その民を得る。その民を得れば、その国を得る。」
と言いました。もし日本がロシアに勝った後、古人の言葉に倣うことができていれ
ば、今日ではアジア各国が皆、日本を頼りとしていたでしょう。」(略)
「ただ日本のみが未知数ですが、抑圧された者の友となるのでしょうか、それと
も抑圧された者の敵となるのでしょうか。私は山本(権兵衛)内閣において、先
生の志が行われうるか否かによって、これを判断しましょう。」
1924年11月28日 兵庫県立神戸高等女学校講堂にて
大アジア主義―神戸高等女学校での演説
「我々が大アジア主義を唱え、検討した結果として、つまりはどんな問題を解決
すべきなのでしょう。それは、アジアの苦痛を嘗めている民族のために、どうす
ればヨーロッパの強盛な民族に抵抗できるのかという問題です。簡単に言えば圧
迫されている民族のために、弱者の味方をするという問題であります。圧迫を受
けている民族はアジアだけにいるわけではなく、ヨーロッパ域内にもいるのです。
覇道を行なう国家は、他大陸や他国の民族を圧迫するだけでなく、自大陸や自国
の中でも同様に圧迫します。」(略)
「あなたがた日本民族は、欧米の覇道文化を取り入れた上に、アジアの王道文化
の本質をも持っていますが、今後は世界文化の前途に対して、結局のところ西方
覇道の手先となるのか、それとも東方王道の防壁となるのか、それはあなたがた
日本国民の、詳細な検討と慎重な選択に懸かっているのです。」
3-孫文と宮崎家
孫文と宮崎家
「明治の侠気と昭和の狂気」―近藤秀樹(日本の名著―宮崎滔天、北一輝―解説より)
1896(明治29)年7月4日―宮崎弥蔵死去
「滔天は既に孫逸仙のことは知っていた。(略)横浜の南京街(中華街)に中国語を勉強すると称して清国人になりすまして潜伏した弥蔵が、ひと足早くこの孫なる人物と会っていることも承知していた。」
1897(明治30)年9月の初め、おそらくは山下町の隠れ家でついに滔天は孫逸仙とめぐり会うことになる。
滔天は孫文ともう一人の亡命客陳少白(1869~1934)とを伴って荒尾の実家に連れ帰り、この異国の亡命客宿年の緊張を日本の純朴な農村のあずま屋で解きほぐしてやった。
滔天は孫中山著の英文「倫敦被難記」を「幽囚録」と題して九州の新聞に翻訳、連載した。
孫中山と滔天との解逅は、やがて1905(明治38)年7月の孫中山と黄興(1874~1916)との握手に発展し、さらに同年8月20日の東京赤坂における中国同盟会の結成創立に結実する。
滔天は陰の功労者として、おそらく日本人としては第一号の同盟会員に迎えられた。秘密会員である。外国人であるということでは特別会員である。推薦保証人は、これまた推測であるが、宋教仁(1882~1913)かあるいは黄興がこれを買って出たのではなかったであろうか。
中国同盟会は、やがて湖南派の宋教仁が発刊していた革命雑誌「廿世紀の支那」を継承、改題して、機関誌「民報」を発刊しはじめた。
「草枕」(注・著者は夏目漱石)の主人公卓子が上京して来て、神田の民報社に泊りこんで留学生や革命志士の世話をしたというのは、このときのことである。
こうして滔天のみならず、宮崎家はもとより槌子夫人の実家、前田家までをも巻き込んで、今や中国革命支援は家族ぐるみの大事業に発展してきた。
1913年3月19日(大正2年)熊本、荒尾の宮崎家にて。
*DVD上映(4分)第二章 九州日日新聞における辛亥革命の報道
これから記すのは、孫文がアメリカで辛亥革命の報に接し、ヨーロッパを経由して祖国に帰ってくる歴史的場面である。九州日日新聞は革命勃発直後から記事を載せ始める。―1
しばらくして在米の孫文の消息も分かる。―2
緒方南溟は明治44年11月4日に熊本を出発し、中国へ渡った。(明治44年11月1日の社告や記事)-3
清国留学生は次々と帰国した。(明治44年11月9日の記事)-4
その後、12月21日に香港で孫文を出迎えている。(この模様は1月3日の紙面)-5
その後、上海まで同船し、宮崎滔天とともに孫文、胡漢民と「しばしば会談を為せり」。(この模様は1月4日の紙面)-6
以上のように九州日日新聞の明治44(1911)年10月から明治45年1月初旬にかけての、孫文関連記事を6本紹介する。
1は革命勃発
2は記者派遣の予告記事
3は在米の孫文の消息
4は熊本の清国留学生の動静
5は孫文帰国の模様
6は孫文・胡漢民との会見の模様
5と6の筆者は緒方南溟(緒方修の祖父)、本名は緒方二三。
緒方南溟―1867(慶応3)年10月23日、熊本で生れた *孫文は1866年生
1940(昭和15)年1月23日、熊本で没した
緒方の中国との付き合いは、まず福建省で言葉を覚え、後に漢口楽善堂の主任を務めた。筆者の叔父・緒方昇(のぼる・緒方二三の次男)から以下のことを聞いたことがある。
「(父 は)荒尾精という将軍に呼ばれて漢口楽善堂へ行った。中国語は二つくらい話したはず。(僕が)中国に留学した時に、どこから来たか、と(先輩に)聞かれ た。熊本です、と答えた。すると、熊本には緒方南溟先生がおられる、わざわざ中国まで来なくてもその先生の下で中国語を学べば良い、と言われた。息子で す、と答えたら、びっくりしていた。」
また筆者の父・緒方維(たもつ・緒方二三の長男)からは、「子供の時に、日清戦争の凱旋行進で、一緒に馬に 乗せられた記憶がある。」と聞いた。祖父がまたがった鞍の前に抱かれて座ったのだ。父にとって、馬上から行列の人々を見下ろしながら行進したのが、よほど 印象に残っていたのだろう。―緒方南溟についてはいずれ稿を改めて記す
(九州日日新聞の引用は、旧漢字・旧かなの一部、数字を分かりやすくし、句読点を振り、ルビを省略した。当時の新聞は文中でも随時小見出しのように大きな字を用いて眼を引き付ける工夫をしている。これらの個所はそのまま再現した。)
1-革命勃発
九州日日新聞に辛亥革命の記事が掲載されるのは、1911(明治44)年10月13日からである。
「武昌官兵叛乱
11日、武昌発其筋着電に依れば、10日夜10時、歩兵2標、砲兵1標、工兵1営叛乱し武昌は彼らの占領に帰せりと。而して総督は逃亡し、鎮討諸兵は漢口に逃れ、其軍に属する騎兵1標あるのみ。事態重大と認む、とあり。」
続いて翌14日には欄外に漢口電報(11日)として次のような記事がある。
「暴動は革命党 10日夜
武昌の防備隊は突然暴行を企て、総督衙門施政使衙門に襲撃し、焼払いたり。瑞総督は11日朝、汽船にて遁れたるが、其原因は総督が革命党3名を断罪に処したるより挑発したるものと想像せらる。漢口各国居留民は11日朝、義勇兵の保護の下に各国領事館内に避難せり。」
そして翌15日には一面トップの社説で以下のような文章を載せている。
「武昌の革命乱
清 国内地の叛乱は、従来頻々として続出するがために、世人をして其報を得て、甚しく驚悸の感を起さしめざるを常とすれども、今次武昌を中心とせる革命党叛乱 は、従来の者に比して、其勢の猖獗にして、其節度の整然たる、大に注目すべき者あり。武昌に於ては、瑞総督と張統制とは、辛うして身を以て軍艦内に逃れ、 衙門は焼かれ、省城は叛軍の手に落ち、軍隊は叛軍に応じ、対岸の漢陽も亦叛軍の有に帰せしが、今は又た南京にも叛軍を生じたり。而して叛軍は秋毫も人民を犯さず、外人に対しても亦危害を加へざるが如き、其節度、規律、頗る厳明なる者ありと。其行動の見事なる、従来の草賊匪徒の烽起とは全く其選を異にせる者あり。」 *下線部は原文では横に小さな●が付いている。
これらを見ると、当時の九州日日新聞の情報収集の早さ、分析力に舌を巻く。
以降は連日一面で「清国の革命乱」を報じ、10月17日に早くも孫文の名前が登場する。
清国通の井手三郎の談話による記事。
「▲革命党の種類
清国の革命党に数多の派がある。大別して之を観測すると康有為の率いて居るのは、儒者とか官吏上りとかで此連中は文章若くは口舌を以て革命を成し遂げやうとして居るらし。
孫 逸仙は之れと反対で腕力家を党興として居る。中には土方見た様な連中も居るが、兎に角武力を振って目的を達しようとして居る。黄興の率ゆる一派は一番真面 目と称せられ而して最も過激な連中である。其何れが今回武昌の叛軍と通じて居るやら解らぬけれども黄興が既に武昌に居るなど云ふ所から見ると、或は黄派の 革命党が主として行動して居るかもしれぬ。」
10月19日には犬養毅が語った「孫逸仙と黄興」についての記事がある。
「今日の騒乱に就ては黄興氏之が首謀者たる如し。黄氏は孫逸仙氏と共に革命党の有力者なるが、寡言朴訥の氏なれども実行力は孫氏に勝れるが如し。」(後略)
翌20日には、雑報として「清国革命党の勢力」として、革命党の秘密結社である三合会など5つ、革命党が海外に有する機関新聞8紙を挙げている。
27 日には、「革命軍の勢力旺盛と官叛両軍の戦闘」が署名入りで載っている。筆者は宗方小太郎。10月19日漢口より送られた記事は三段に及んでいる。中で 「革命軍に属する文武の役員は皆な選挙法に依りて之を任用しつつあり」、「其兵力は約2万にして小銃1万8千挺、弾丸1600万発と砲60門を有し」と強 調されている。
「盟友」宮崎滔天はどうしているのだろうか。10月29日の「行雲流水」という欄にのんびりした記事が出ていた。
「横 浜の南京街にいる支那人は、穏健の革命主義を取っている康有為派が多いのであるが、昨今本国政府が革命軍にいぢめられ又革命軍が官軍に負けたといっても一 向平気なもの。▲「ハハア、どこかで発火演習があるんだ」などと村民が聞くとはなしに、聞いて居る様な風だ。此れがもし日本なら大騒ぎ。夫れ義捐金の、義 勇兵のと急り立つのだが、支那人はどうしても大国民である。大腹の国民だ。▲革命党同情者梁山泊中の一人たる宮崎滔天は浪花節語り桃中軒雲右エ門に弟子入 り、一方に迂鳴る稽古をすると共に、一方には雲が語り出す文句の原作に従事しておる事は人の知る所だ。▲所が此の程、雲が滔天に向って
「君は果して僕より上手になる積りか」と云ふ。滔天「イヤ其の見込は勿論ない」と答えると、雲は隙さず「そんならもう浪花節は止し給へ」「ウンソーカではよそう」▲此の後は滔天は遇う人毎に「僕は雲に浪花節を封せられたよ」と云って其の後は決して迂鳴らぬとは面白い。」
2-記者派遣
明治44年11月1日に二段にわたって社告が出ている。
「●清国変乱と主筆特派
清 国の変乱日を逐ふて拡大し、東亜の大陸紛々乱麻の勢を現はし時局の前途測り知るべからざる者あり。此際に処し平素支那大陸の形勢に特種深甚の注意を払へる 我が九州日日新聞社は各地に於ける通信機関具備し各方面に在る社友より絶へず他新聞に見るべからざる通信を寄せ来り。常に敏活の報道を為すに怠らざるも時 勢の急は更に社員を特派するの必要を感じ、主筆小早川氏自ら其衝に当ることとなり、愈来4日其椽大の筆を載せて変乱の中心たる漢口に急航す。氏の観察の鋭 敏と文章の雄健とは読者能く之を熟知せらる敢て紹介の要を見ず。加ふるに氏の同行には社友平山、古庄、緒方の三君あり。其変乱の地に到着するや更に各方面 に分れて形勢の視察に従ふと共に我社の為め力を致すべきを約せらる。清国変乱の形勢、官革両軍の戦報に関する今後、我九州日日新聞の記事は新聞界の絶品た るべきを疑はざるなり。」
*この社告は新聞の一面8段のうち5~6段目を使い、真ん中に掲載されている。続いて5日と7日にも同じ扱いで載っている。
最下段には特別広告として東亜同志会からのお知らせ、および発起人による送別会(4日開催予定)のお知らせ(略)が掲載されている。
「平山岩彦
古荘 鞱
緒方二三
小早川秀雄
右本会を代表し清国
現下の状勢視察とし
て来四日熊本出発清
国に向はれ候間右会
員諸君に謹告候也
明治四十四年十一月一日
東亜同志会」
*上記の緒方二三(おがたじそう)は祖父緒方南溟(おがたなんめい)の本名。
11月5日の新聞には「渡清の離宴」の記事が載り、11日の紙面には揚子江上で書かれた小早川の便りが「●中清行」7日(注:2日後)博愛丸にて として紹介された。
同日の紙面には「清国革命乱画報」として写真も掲載された。
緒方は5日に長崎を発ち、同行4人と上海まで行った。そこから各地の実情を探りながら12月に孫文帰国の報を得て、香港へ向ったとみられる。
3-在米の孫文の消息
11月9日には「孫逸仙の壮語」として、孫文の動向が伝えられた。
「孫逸仙の壮語 費府の親友と会して語る
10 年間故郷を後にして革命の為めに尽くせる孫逸仙は去月24日費府より紐育に現はれ、北京よりの密使を待ち、その模様によりて支那に赴かんと計画し居れるは 既報の通り(注*)なるが、同23日夜、孫は費府に於いて親友某と会合せる際、革命軍が武昌、漢口、漢陽を占領せば、清国の西部と北部の鍵を興へられしと 同じきより武昌は周の枢要地、漢口は清国の西と北部の鉄道中心にして、漢陽は鋼鉄製造所、武器製造所あれば清国の門戸を閉ざせると見て可なり。(中略)
米 国は独立するに9カ年を要したれど、革命軍は一撃の下に独立する決心なりと。又民政を布き統一を図る為め、革命軍は数世紀間呻吟し居る者を救ひ、自由を興 へん云々の布告文を全支那に頒布する事や満の政府には同情者なければ、皆革命軍に投ずべし。袁世凱が活動するも更に恐れざる由を語れりと。」
-費府はフィラデルフィア、紐育はニューヨークのこと-
*に関連して11月8日の欄外記事「●予期の軍資を得ば孫は日本に来る筈」等の観測記事がある。
11月22日には一面トップに「清国の革命乱」21日着電が載っている。
孫逸仙来らん
孫逸仙が上海に来るべしとの説は確実にして当地にはこれを迎ふ準備中なり。(上海発)
11月30日には同じく一面トップに「清国の革命乱 ●革軍の大壊乱 武昌軍解散、両頭領の逃走」29日着電 が掲載された。
「●孫の帰国説
孫逸仙は、近く西比利亜線経由にて当地を通過し、上海に赴くべしとの説伝へられ、当地革命党は鶴首して来奉を望み居れり。(奉天発)」
*下線部は原文では横に小さな●が付いている。
各地で孫の帰国に期待が高まっている様子が分かる。
12月5日は●形勢の急転、漢陽の陥落として11月28日に主筆の小早川が書いたレポートが掲載された。その中に緒方の消息が出ている。
「陸上の兵士、緒方君の舟を乱射し、君は辛うじて危途を脱して漢口に帰来し、茲に初めて漢陽陥落の確報に接するを得たり。」
二面には清国の革命乱 4日着電として、共和政府の顔触が掲載された。
12月8日には孫文の写真が初めて掲載された。
4-清国留学生の動静
熊本にいた清国の留学生はどうしていたのだろうか。11月19日の記事を引用する。
「熊本の清国留学生続々帰国す 五高は告別式を行ふ
故 国の動乱に血を沸かせる当熊本の清国留学生は、第五高等学校、熊本高等工業学校、中学済々黌、私立熊本医学専門学校の各学校に在籍せるもの少なからず。彼 等の内には故国今回の動乱に対し、憂心衷々として只管家郷の天地を望むもあれば、中には真面目に勉強を続けつつあるものも無きに非ざれど、多くは学資金其 他の事情に依り、既に帰国の途に就きたるものもあり。又た既に帰国に決して遠からず熊本の地を去らんとしつつある留学生もあり。」
続いて「▲感慨深き告別式」として第五高等学校において開かれた休学を許可された留学生15人に対する告別式の模様が掲載されている。
「所属のクラスに於て各有志学生より夫れぞれ送別会を催ほし」、「慈愛籠れる告別の辞に、無量の感慨を惹き」と大きな活字で強調された。
熊本高等工業学校に在学中の清国留学生5人は「▲授業も欠席勝ち」、中学済々黌の二年生二人のうち一人は「▲途中から葉書」を出して帰国。熊本医専学の二人は「▲赤十字団に加入」と紹介されている。
5-孫文帰国
明治45(1912年)年1月3日 九州日日新聞一面
全8段のうち下段3段を埋めて緒方南溟の署名入り記事が3本。
「上海より香港」、「香港と広東」、「孫逸仙氏を迎ふ」を、抜粋して紹介する。
「上海より香港」
12 月14日、革命軍幹部に於ては今回、媾和使唐紹怡の一行が最大譲歩の案を持して来たるも、袁の手を経て来るものは如何なる案件をも結局絶対に拒否するの意 向に決せることを知了したるにより、22日欧州より香港着の予定なる孫逸仙君を出迎へ、帰途船中にて緩談せんとの念湧起して已まず。即ち宗方、平山、井戸 川諸友と諮り、議一決。其日午後5時、
欧航の郵船宮崎丸に搭す。船は翌15日午前6時、黄浦江中流を出帆し、18日午前10時香港に着し、三井ランチの出迎により直ちに東京ホテルに投す。(後略)
「香港と広東」
爾 来、香港は革命党の策源地なりしが、近数年英政府の同情なく、孫逸仙を逐へるの地なるも、其根底は甚だ深く、且つ直接清朝官憲の圧迫を避くるに便なるた め、孫の与党は或いは新聞に、雑誌に、著述に、言論に、大に此の主義を鼓吹せり。又た此地に在るの広東出身の豪商等は大に之に同情して孫の与党を助援する 者あり。革命党に在りては実に因縁深き地なり。後、新嘉坡に、豪州に、南洋に、北米に、日本に同主義者の増加するに従ひ其中心点は所々に移動せり。而して 広東も亦た湖南と共に恰も革命党の薩長たるの感あるなり。(後略) -新嘉坡はシンガポールのこと
「孫逸仙氏を迎ふ」
英国ピーオー会社汽 船ザー、テバンハー号は予定に先立つ1日、乃ち21日午前7時香港到着の趣き、同社香港支店よりの電話に接したる予等は前夜より三井支店に交渉し、午前7 時にホテル前にランチを廻はすこととし、同時刻の至るのを待ち、相携へて港を横ぎり桟橋に至れば同船は徐々として入港し、桟橋に繋留す。同氏を出迎ふるの ランチ数隻相前後して至る。革命軍広東都督胡漢民氏一行は、昨夜広東より軍艦に座乗して来れり。其他外国人支那人等の来り迎ふるもの甚だ多し。予等は段梯 子を上り応接室に至れば、孫氏は本年45才、雄姿颯爽として起立し、満面の喜色を帯びて一々出迎者と握手しつつあり。予は滔天氏の紹介にて握手をなすと同 時に支那語を用ひて革命軍の成功と氏の健康を祝し、更に携ふるところの宗方氏の書面に自己の名刺を添へて呈すれば、氏は後にてこれを見るべく、且つ後刻緩 談すべしと語りて更に緊強なる握手を為せり。夫より各種各様の人入乱れて握手を為す。予等は傍らに座を占め、此光景を観望せるが、迎ふる者迎へらるるの孫 氏共に感慨を深うせるを認む。
広東よりは都督胡漢民、外務部長陳白氏外数名の出迎ふるあり。蓋し孫氏を拉して一応広東に至りて同地の整頓を謀らん との意なりしも、上海よりは黄氏を代表して宮崎滔天氏其他黄氏の参謀、及副官等数名も亦た一日も早く中央政府を組織すると同時に、現下唐紹怡との和議進行 中もあり。且つ和議破るれば直に北伐の準備を為す、の必要あり。彼れ是れ孫氏を一刻も早く上海に赴かしめんとの使命を帯び来れるあり。交々其必要を主持し て相決せず。孫氏は遂に双方の出迎者と共に軍艦に赴き其何れが先きにすべきやと決せんとて辞して軍艦に至らる。予等は乃ち後刻再会せん事を約して帰宿せ り。
正午12時、ランチを艤して本艦に至り、途中孫氏一行ランチに乗して香港に上陸せんと急馳しつつあるを瞥見し、直に船首を回らし之を追尾し、遂に追ひ付くを得、広東上海何れを先にすべく決したるやを問へば上海に決したりとの事故大に安心し(後略)
6-孫文・胡漢民との会談内容
明治45(1912)年1月4日号には全8段のうち5段にわたる記事が掲載された。緒方南溟による「●予の接触せる孫文氏 於上海」である。デンヴァー号内で孫文・胡漢民と度々会談し、その要点を記したものである。全文を紹介する。
「●予の接触せる孫文氏 於上海
予 は本月21日(注・1911年12月)午後5時、英国ピーオー会社郵船ザーデンバンハー号に搭乗す。孫文逸仙氏一行此時、本船に帰乗せり。在香港日本写真 師は予等を介して孫氏を撮影せん事を乞ふ切なり。乃ち孫氏を甲板に拉し来り、革命党の重立つ面々と予等日本人と共に撮影せり。(該写真は出来次第香港より 送来すべければ不日之を寄すべし)
1911年12月21日(明治44年)デンヴァー号船上にて
船 は6時出帆の予定なるも、荷卸しのため多少遅延すべし、との事なるも、孫氏を送り来れる革命の有志並びに孫君の郷友親戚等は、或は公事に或は私事に談論 面々として盡くるの期なし。予等は船中数日の閑日あれば敢へて談話を急がず之を傍観せり。日暮るる頃、送客皆別れ去り夜に入るも出帆せず。聞けば明朝天 明、出帆に変更せるなりと。晩餐後、喫煙室に至れば孫君は談話の主人公となり内外同船者と如才なく談話を交換せり。此夜、一天墨の如く香港満港船舶の舷灯 は山上街市の点灯と共に海に映じ景致言ふべからざるものあり。予の煙霞癖は甲板より之を耽観し端なく衣襟の冷湿をしらざりき。
明くれば22日、船 は早や大洋に航走しつつあり。是より陰晴雨霧交々至り、流石に9千トン以上の大船も洪波巨濤に翻弄せられつつ、23日、24日の3日間荒れ模様にて、之れ が為め甲板遊戯と逍遥もなす能はず。却て喫煙室と読書室とに集まり船客各々膝を交へて交際し、談論するの機会を与えたり。全船上の状況を叙述するは数段の 紙上を埋むるも、是れ足らざるを以て、左に其梗概を叙述する事とせん。
孫逸仙氏及び広東都督胡漢民氏とは屡々会談を為せり。其主要なる点を適記すれば即ち左の如くなりき。
1―孫氏は新嘉坡着と同時に英国香港太守より香港到着の上は会見したき旨、電報にて交渉ありしとの事にて、21日午後上陸。最大秘密を以て太守と会見せり。
顧 ふに、先年孫氏は香港にて逐はれたり。今は革命軍多大の成功を為し、英国上下の同情を孫氏一身に集めたり。英国政府の態度は一変し、香港太守は楊を払ふて 孫氏を迎えたり。日本の孫氏の日本を経て支那に入を黙認をさへ興へざるも日本の外交と其巧拙いずれぞやを慨せずんばあらず。
2-孫氏は香港到着迄は全く日本国民の全般が革命軍に同情を表しつつあるを知らざりき。
予は諄々として今日日本国の上下が革命軍に同情を表しつつある事を語りしに、孫氏は初めて之を知りたるの有様なりき。
3-孫氏は、同氏が米国より屡々日本を経て支那に赴かん事を日本政府の黙認を得ん事に勉めたるも、結局日本に其意思なかりしを以て、日本政府の現今支那に革命思想の磅々しつつある事を知らざるの迂闊なると同時に大に日本を恨みたるの有様なりき。
4-予は孫氏及び胡漢民(広東都督)に向ひ、日本政府は列国と共に厳正中立を守れり。是れ清国の革命的運動は満州政府に対し、全く叛乱的擾乱と認めたればなり、と懇々説述したれば始めて之を首肯したりき。
5- 孫氏は日本政府及び日本国民は近数年来、甚しく支那に向て悪感を抱き居れり。是れ予が今回日本に上陸を黙認せられん事を乞ひしも、之を許さざりし所以なら ん。日本政府は、此不可抗的革命思想の進歩せる支那国民、殊に日本に留学せる軍事教育を受けたる少壮軍人及びその他一般の学生に横溢しつつある事と、満州 朝廷の事実的に無能にして滅亡しつつある事を知らざるの致す所ならん。抑も東亜の大局は、有力なる日本及び民衆の多き領土の広大なる支那の連結、に非ずん ば之を確保する能はざるは見易き道理なるに、日本は何故に我等革命党員を忌むや又た後進者たる支那国民を蔑視するの甚だしきや是れ予の了解する能はざる所 なりとの愚痴を漏せり。
6-予は之れを弁解して日露戦役後、日本と支那とは和親輯睦すべき運命を有しながら、事実はこれに反対して、両国は互に疎 隔しつつあり。是れ日本の当局者も悪るきが、支那も亦た悪るし。何を以てか之を謂う。曰く、辰丸事件、間島問題、安奉線問題、朝鮮併合問題、此数者は実に 瑣々たる問題にして両国が口角泡を飛ばして争うべき問題にあらず。然るを貴国の新聞紙は、他に扇動的利用する所ありてか之を捕らへて大に論議し、事毎に日 本の悪口を為せり。殊に近数年は利権回収問題に熱中して日本と貴国との間隔を益々遠離せしめたり。以上は悉く問題にして、固より之を問ふべきに非ず。特に 朝鮮併合の如き、我国は二千年来の歴史を有し、日本に於て之れが世話をなさざれば露国は遠慮なく之を取らん。左すれば是真に東亜の平和を撹乱するものにし て、日本の自衛上国家を賭して之を争い、而して後併合せるものにして朝鮮の王室及び人民は永久に至大の幸福を得たるものにして支那人民は何の権利ありて之 を批難するや、と畳み掛けたれば、
7-孫氏は朝鮮を併合するは、日本の自衛上と東亜の和局の為め大必要なる当然の事にして予は少しも之れに異論なし、と鉾先を転じたり。
8- 予は是に於て過去の事はことごとく之を東流の水に付して、向後益々日本と支那の人民は堅く連結して以て東亜の和局に貢献するは勿論、進んで世界の平和に貢 献すべし、之を実行するには速やかに革命事業を成功し秩序を回復し以て広漠たる支那の領土をして世界商工業の為めに開放して以て自他の利益を増進するに在 り、と云ひしに、孫氏は大に之を是なりとして同意を興へたりき。
9-其他、土地国有に関する利害問題、支那の言語統一問題、大統領問題、政府組織問題、満州朝廷の処分問題、支那財政問題、産業開発問題、人材登用問題、政府組織速やかに大員を東京に派して交戦団後体並に独立国承認問題、徴兵問題等に関して、意見の交換を試みたり。
之 を要するに、孫逸仙氏は博学宏識にして、如何なる事を論ずるにも敢へて少も窮する事なく物に触れ、事に応じて、意見油然として沸き、温乎たる風来の内機鋒 縦横犯すべからざるの威厳ある世界的の偉人にして支那四百州の大統領として恥かしからぬ人物なり。之を比するに少しく比倫の感なきに非ざるも黄興克強を老 西郷何州の小形とすれば孫文逸仙は大久保甲東其儘と見て可ならんか。
船、上海に着すれば、郵船小蒸気にて多数の日本人来り迎へらる。其内、犬養木 堂氏あり。孫君は甲板上より之を見て大に喜べり。孫君は友人龐氏に伴はれて他の小蒸気に乗り、予等はホーマリー将軍夫妻(亜米利加人)及び迎ひの人々と共 に税関波止場に至り、思ひ思ひに宿所に帰りぬ。
船中、記念のため孫氏胡漢民氏の書及び土地国有問題に関して筆談せし一節を寄せて、読者の一粲に供す。(12月29日深更稿)
以上、辛亥革命勃発後の1911(明治44)年から翌12年1月初めの九州日日新聞より、孫文関連の記事を追った。革命の一報を得て約50日後、孫文が香港に戻り上海に着くまでの
限られた探索である。辛亥革命直後の熱気、孫文に対する期待が感じられる。孫文、胡漢民との対談、および紹介記事は今でいえば世紀の大スクープである。
なお引用文は、熊本市立図書館及び国立国会図書館所蔵のマイクロフィルムより該当部分をコピーし、参照した。
これより1年半後、孫文は日本を訪れている。熊本にまで足を伸ばし、荒尾の宮崎家、中学済々黌を訪問した。その時の写真と演説の一部を紹介し、小稿をひとまず終える。
1913年3月20日(日本では大正2年)
熊 本、済々黌中学(現在は高校)にて。校史には東亜同志会緒方氏先導たり、と書かれている。緒方南溟は2年前の1911年12月、デンバー号で帰国した孫文 と会見し、その後宮崎滔天と共に同船。上海までの船中で孫文の考えを聴いている。胡漢民と孫文から色紙を寄贈されているが、孫文は「海不揚波」と書き、日 付をためらった後、思いついて「清之亡年」と記し、愉快がったという。「十二月二十二日 南溟先生宛 孫文書」と続いている。なお済々黌訪問の際、孫文は 以下の演説をしている。
「我国に於いても漸く南北統一の案成りたるが、今日の世界の大勢に従ひ、国と国との競争以上に、人種と人種との競争場裡に 立たざる可らざるに至れり。即ち白色人種が黄色人種に対して、競争を挑みつつある如く、我東洋の諸国も亦大に連合和親して、白色人種に対抗して、黄色人種 の気勢を示さざる可らず」
(2列目右から5人目が緒方南溟)
http://www.zaobao.com.sg/forum/views/opinion/story20151114-548822
对新加坡人来说,新中建交25周年的意义同样值得我们细细品味。新中的交情不只25年,两国的渊源远自几百年前不说,“近”的可以追溯到19世纪末开始的一波又一波的南来移民浪潮,南洋一带成为中国南方人民对外寻求安身立命之所。中华民国国父孙中山把新加坡当作推动革命的海外基地,跟晚晴园结下了不解之缘。但随着中国人民共和国的成立,以及新加坡建国之初所具有的政治敏感性,孙中山与新加坡的渊源在客观与主观的历史大环境下长时间受到埋没。
孙中山革命事业的海外足迹遍及日本、美国和新马,唯独南洋这一块的历史受人忽略,甚至专门研究中国现代史的中国海外学者、日本学者对孙中山在南洋的足迹也是一片茫然。两周前我到神户出席晚晴园在神户所办的特展和研讨会,会上一位研究辛亥革命的日本学者冲绳大学的区域研究所所长绪方修教授在听了我国历史学者柯木林的演讲后,表示非常惭愧,因为在他的研究范围里,他竟然对孙中山与新加坡的一段历史一无所知。
新加坡通商中国与联合早报联合出版的《新中建交25周年回顾与展望》,内容涵盖了两国各个领域的交往,从政治外交、经贸合作、文化教育到通商中国的应运而生,相当全面地反映了两国现代关系发展过程。其中不乏有趣的记载,如提到中国国家主席习近平的夫人歌唱家彭丽媛在1990年便来新加坡参加过“春到河畔”的演出,并在1993年来这里办她的第一个海外个唱。
事实上,根据《联合早报》昨天的报道,彭丽媛与新加坡的缘分还更早,在1987年时她曾跟另四位中国央视年轻歌手来新参加过“星华之声”的演出。这次随着习近平的国事访问,她抽空与当年的伴奏乐手会面叙旧。这一段人情味小插曲,从另一个角度突出新中交情的独特之处。
当中国于80年代打开开放大门之际,从政界、文化界到艺术界的海外经验的“第一次”多是献给了新加坡,就因为新加坡是他们可以“放心”的国家。但是,今天的中国不一样了,中国官员到欧美开眼界的机会多了,新加坡也许已不再是艺术家、歌唱家献出海外第一次的首选。
习近平上周末乘到新加坡作国事访问,“顺便”邀请台湾的“马先生”(马英九总统)来这里“习马会”,不少人都说这是习近平带给新加坡的礼物。这份礼物的确很让新加坡人“与有荣焉”。
从华人的传统思维来说,习近平给新加坡的这份礼物,应该说是“顺水人情”。新中关系渊远流长,新加坡乐意扮演两岸通声通气的桥梁,而且又被视为“大中华文化圈内一份子”,因此,两岸领导人60 多年难得碰头的“第一次”就发生在新加坡,不是历史的偶然,历史永远记上了这一笔“浓墨重彩”,这是两国互相“成人之美”的写照。
新加坡在文化上跟中国传统文化有其相容之处,政治上虽是西方的议会民主制,却又不以一种优越感自居,文化与政治上的独特性,使得中国过去乐于接受新加坡的“顺水人情”,多年来一直借新加坡的平台,不断输送艺术家、歌唱家、各省级文化团体到新加坡推广中国文化,尤其是新加坡每年的“春到河畔迎新年”的民俗活动,成为了中国各地方的艺术团体不可缺席的场合。1996年以来,中国不断派送省部级官员来新上课(所谓的“市长班”),使得中央和地方官员普遍上都有或深或浅的“新加坡经验”。
“习马会”之后,两岸媒体有关的分析和评论文章如潮水般,至今还未平息,而新加坡的角色也是媒体焦点。北京《环球时报》在11月7日的一则评论中说:
新加坡本来就在世界上很出名,“习马会”将增添它的光彩和亮度。尽管两岸早有稳定沟通渠道,新加坡为促成“习马会”举行发挥了多大作用也未可知,但两岸社会还是会增加对新加坡的好感,世界也会更加高看这个国家。一个国家如能为和平与合作出力,总是会赢得尊敬的。新加坡让自己做桥梁,而不是路障,这或许是它成功的重要秘诀。
这则评论肯定了“习马会”给新加坡外交地位的增值,是新加坡长年以智慧和善意经营新中关系的一大收获。
新中关系是国际外交关系上的一段奇缘,“25 年”道不尽其中的跌宕起伏与曲折离奇。
作者是本报特约评论员